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和光市の不動産鑑定のお問合せは神奈川鑑定の不動産鑑定士が承ります。和光市(わこうし)は、神奈川鑑定(通話料無料フリーダイヤル0120-554-574:横浜市)の不動産鑑定評価業務、相続税申告、相続税還付サポート業務、財産評価基本通達24-4に関する広大地判定業務における営業最重要都市の一つである。埼玉県南部にある人口約8万人の市。戦後、急速に東京のベッドタウンとして人口が増え、本田技研工業の工場建設(現在は工場は廃止)によって工業都市として発展。株式会社本田技術研究所の世界本社、独立行政法人国立病院機構埼玉病院、独立行政法人理化学研究所のほか、近年では、税務大学校、司法研修所、裁判所職員総合研修所などの国や民間の研究・研修施設の立地が進んでいる。
人口増加率は、1995年(平成7年)から2005年(平成17年)までの10年間で、21%であり、埼玉県の市町村では1位である。全国ではトップ10に入っている。また生産年齢人口の割合も75%に上り、全国トップ10に入っている。このため東京都内に比べて児童数が多く全体に若い雰囲気の街とも言える。
近年急速に住宅地として発展している街であるが、23区に隣接しているにもかかわらず、雑木林、畑が点在し、湧水もあり、まだ武蔵野の自然が残っていて、県営和光樹林公園などの公園もあり、全体的に緑の多い街である。しかし、江戸時代以前の面影を残すような建築物などはあまり残っていない。
埼玉県の南側、東京都と接する位置にある。
地形的には武蔵野台地上にあり、市の東側・東京都板橋区との境に沿うように白子川が、市の北端には荒川・新河岸川が流れている。市の中央部を東西に通る東武東上線を境にして、その南部は台地であり、北部は低地になっている。
東上線を境に南側は大規模に開発されており、国・民間の研究機関・本社や団地が立ち並び、近年急速に商業集積が進んだ。北側は小規模開発の住宅地と畑が混在しており、区画整理が実施されている地域もあるが、北口駅前はまだ開発が進展していない。
東京外環自動車道、笹目通りが市内を横断、国道254号が市内を縦断しており、市内から至近距離に関越自動車道、首都高速の入口がある。和光市駅は東武東上線と地下鉄有楽町線、副都心線が利用でき、また、居住エリアによっては、三田線、大江戸線、西武池袋線も利用できるので様々な場所にアクセスしやすく、交通の要衝となっている。
周辺は湧水が多い地域で現在でも井戸がある。旧川越街道沿いの富沢病院駐車場では今も湧水が豊富である。近年病院側(地主)が駐車場整備のため一部閉鎖してしまったが、敷地には柵もないため道路からは湧水が確認できる。現在も付近の鮮魚店、寿司屋が営業で使用している。市役所正面白子川沿いの台地には縄文期の遺跡が発見されている。隣接する成増地区にも同様に遺跡があり、台地上に集落が築かれていたと思われる。現在、その集落跡には寺社が建てられているケースが多い。
古墳時代から奈良時代にかけて、渡来人の移住があったとされる。その理由として白子(シラコ)は新羅(シラギ)の、新倉は新座(すなわち新羅)の転化とする説や、百済王子の住んだとされる牛房城伝説があるが、考古学的には実証されていない。ただ江戸時代中期までは新倉は「新座」と表記されており(読みは同じ"にいくら")、志木市や新座市にも同様の渡来人伝説があることから、単なる伝説ではないと考えられている。新座郡の項も参照されたい。
いずれにせよ、かなり古い時代から白子台地には集落が築かれており、現に寺社も多く、その中心地は現在バス停に名をとどめているだけだが「市場」辺りだったらしい。
戦国期には白子台地上で上杉勢と北条勢の争い「白子の戦い」があった。
江戸期には川越街道の宿場として白子宿が栄えた。当時の街並みはほとんど残っていないが、当時の中心地だった熊野神社周辺には旧家が残っている。中でも花火を稼業とした富沢家は中心的役割を占めており、現在も富沢姓の旧家が多い。また、江戸時代には新河岸川を通る水運も盛んであり、新倉には河岸が設けられていた。
鉄道が敷かれ、川越街道のルートが変更されると、白子宿や新倉の河岸は寂れた。白子宿周辺では豊富な清水を利用して魚の養殖、水車営業も行われたが、市の中心地は駅周辺に移って行った。以前の白子には湧水が盛んに沸き出ており、明治9年(1876年)には白子村の熊野神社境内に日本最初の養魚場ができ、明治23年(1890年)に養魚場は閉鎖された。又、近くには、以前湧き水が流れ落ちていたため、滝坂と呼ばれる坂が現在でもある。
川越街道は、15世紀に江戸城と川越城を築いた太田道灌が部分的にあった古道をつないだものが起源と考えられており、元々は近世の川越街道(現在の旧川越街道、埼玉県道109号新座和光線)の東を蛇行していた。近世の川越街道の完成は松平信綱が川越城に入った寛永16年(1639年)以後のことである。町制施行時に、町名に関してもめた為、「大いなる和」で一つになると言う意味から「大和町」と名付けられた。
市制施行時に、神奈川県大和市やほぼ同時期に市制施行する東京都東大和市と区別する為に新市名を一般公募し「和光市」と名付けられた。地元にはこのような地名は無く、大和町と同じくいわゆる瑞祥地名である。
一般公募の際、現在の和光市内に住む「和光」さんも「和光市」と応募して、市の名称として採用されたという逸話がある。長らく関係の深い朝霞市・志木市・新座市との合併を目指す運動がしばしみられる。
1960年代には、当時の朝霞町・足立町・大和町・新座町4町で合併し市制施行を目指す動きがあったが、話がまとまらないうちに1967年(昭和42年)朝霞町が単独で市制施行し、合併はついえた。また、市制施行の人口要件が3万人に下げられたことから、大和町も含めた他の3町も単独で市制施行した。
平成の大合併の最中、2001年(平成13年)4月に「朝霞市・志木市・和光市・新座市合併協議会」が設置された。しかし、2003年(平成15年)4月13日に4市で実施された、合併の是非を決める住民投票が実施された際、和光市では投票の77%が反対という圧倒的な結果で合併は否決され(朝霞市、志木市は賛成多数、新座市はわずかに賛成多数)、合併は取りやめとなった。
いずれの動きにも、和光市の住民は合併に否定的な傾向を見せている。これには、1986年から現在まで、20年以上に渡って地方交付税不交付団体であるなど和光市が財政的に恵まれていること(他の3市に比べ収支が圧倒的に黒字である)や、東京都に隣接しているという地理的な影響があったものと思われる。和光市駅南口は近年、区画整理が完了したことに伴い、多くの商業ビル、銀行などが立ち並ぶようになった。今後は北口地区の区画整理が実行される。
駅周辺は、当市の中心地であるが、都内に近いこともあって、駅前への商業集積はそれほど多くないと言える。しかし、当市にある研究機関や会社で働く人が多いためか、居酒屋が多いのが特徴的である。駅前通り、旧川越街道にはマンションが建ち並び、昔ながらの商店は姿を消しつつあるが、現在も少なからず残っている。笹目通り沿いには、近年発展した住宅街と、かつてからあるセメント会社や倉庫が点在している。新倉・白子近辺はかつて宿場町であったため、銭湯や小売店などが今でも存在する。又、荒川付近には産業廃棄物の集積場などがある。
かつて、戦前は、陸軍施設があったため軍需工場が立ち並んでおり、戦後は、米軍施設(キャンプ・ドレイク)があったため、旧川越街道沿いには、朝霞市を中心に米軍相手の商店があった。
東京に接しているが農地も比較的残っており、大消費地への近さを生かした近郊農業が行われている。なお、当市でとれた野菜は農協などで買うことができる。
豊富な湧水を生かし「酒造り」が行われていた。2大銘柄として下新倉浅久保に「秀峰」、本村に「長泉(ながいずみ)」があったが、現在は二銘柄とも廃業している。和光市駅は1934年(昭和9年)2月1日完成。島式ホーム2面4線の駅。東京地下鉄の車庫・停留・折り返し設備である和光検車区がある。東京地下鉄の駅としては唯一埼玉県内にある。1日の乗降人員は128,306人(平成19年度)で、東武東上線内では、池袋駅、朝霞台駅に次ぎ、川越駅とほぼ並んでいる。
都営三田線と東武東上線にかつて乗り入れ構想が存在しており、大和町駅(当時)から分岐するとされていたが頓挫した。
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